「界隈曲」という名前は、ある名前を呼ばないために生まれた

曲のタイトルが、記号ひとつしかないことがある。ひらがなとカタカナしか使われていない曲名も多い。そして、作った本人の名前を、聴き手の誰もが口にしない。

そういう音楽が、いつのまにか「界隈曲」というひとつのジャンルとして語られている。ボーカロイドの片隅で起きていることだ。

ただ、これは珍しい音楽を紹介する話ではない。名前をめぐる、もっと厄介な話だ。ネットで、何かに突然名前がつく瞬間に立ち会ったことはないだろうか。そのときの、少し落ち着かない感じ。あれに、どこか近い話かもしれない。

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曲名のない曲が、ジャンルの名前を持っている

正規の手段で聴ける曲は、たった4曲しか残っていない。起源とされる作り手が、ある時すべての投稿を消して引退したからだ。本人が自分の名前を伏せることを条件に、転載だけを認めた。

そうして生き延びたのが、「イワシがつちからはえてくるんだ」などを含む、通称「海鮮4曲」になる。記号やひらがなだけのタイトル、ドット絵で組まれた映像、合成音声の歌声。派手な仕掛けはないのに、一度聴くと奇妙に忘れられない。この4曲の手ざわりが、あとに続く無数の曲の下敷きになっていった。

本家が消えたあとも、残された4曲のまわりでは、ファンによる自己解釈の映像やメドレーが次々と作られている。原典の不在を、二次創作が静かに埋めているような形だ。

興味深いのは、百科事典の説明にも引っかかる一文があることだ。界隈曲は規範的な音楽ジャンルではなく、むしろ文化的なものだ、と書かれている。

ジャンルの名前がついているのに、ジャンルの条件からははみ出している。聴けば「これは界隈曲だ」と感じる人がいる一方で、その輪郭をきっちり線引きできる人はいない。では、この「界隈」とは、そもそも誰の界隈なのか。

名前を呼ぶなと言って消えた、という構造

起源とされる人物は、ある時点で自分の作品をすべて消した。そして「自分のことを語るな」という意思を残して、表舞台から去ったとされている。

その名前は、いまも事典のページを開けば書いてある。特別に隠されているわけではない。それでも、この記事ではあえてその名前を書かない。本人が望まなかったことを、検索向けの文章でわざわざ上書きしたくないからだ。

ここに、この音楽の核心がある。名前を出せないとき、人はその対象をどう呼ぶだろう。直接は指せないから、「あの界隈の曲」と遠回しに言うしかなくなる。その遠回しの言い方だけが手元に残り、やがてひとり歩きして、ジャンルの名前として定着した。

だから「界隈曲」という名前は、ある名前を呼ばないために生まれている。名づけが敬意なのか、それとも約束破りなのか、簡単には決められない。

そもそも「界隈曲」という言い方自体、現象に少し遅れて追いついてきたものらしい。広く使われ出したのは数年前からで、それ以前は別のくくり方がされていた。名前は、いつも対象より後からやってくる。

界隈の中にも、ためらいの声がある。界隈という言葉は、本来そっと共有するもので、外に向けて掲げるものではない、という感覚だ。名前がついて探しやすくなったはずなのに、名前がついたことで何かがこぼれ落ちた。そんな違和感が、はっきりと言葉にされている。

本人がいないことが、なぜ引力になるのか

普通、音楽は作り手の存在とセットで愛されていく。界隈曲は、その逆を行っている。中心にいるはずの人物が、自ら姿を消してしまった。

その空白が、かえって強い引力を生んでいるように見える。実際に、こんな観察がある。ある作り手が界隈曲をほんの数曲発表しただけで、その数曲が、ほかの全楽曲の再生数を大きく上回った、というのだ。

不在が神話になり、神話が人を惹きつける。ミステリーや都市伝説とよく似た構造だ。本家がもう聴けないという事実が、想像の余白を押し広げる。聴き手は、残された4曲を手がかりに、消えた本人の輪郭を、頭の中で勝手に補っていく。

名前を呼べないという制約すら、神秘性を高める燃料になっている。ここには、少し危うい循環がある。語ってはいけないという空気が、かえって語りたいという欲望を煽る。秘密にされるほど、人はそれを知りたくなるものだ。

界隈曲をめぐる熱の一部は、音楽そのものというより、この「触れてはいけないもの」の手ざわりから来ているのかもしれない。

それは「ジャンル」なのか、それとも「つながり」の名前なのか

界隈曲には、たしかに共通の作法がある。四つ打ちのリズム、少し洒落た響きのコード進行、ドット絵で組まれた映像。モールス信号めいた暗号や、画面には映らない裏の歌詞が仕込まれることもある。近ごろは、自分の曲に「界隈曲」とタグを付けて発表する作り手も出てきた。

ここまで要素が揃うなら、独立したジャンルと呼んでよさそうに見える。ところが、同じ事典がこうも書いている。本人が界隈曲のつもりで作ったかどうかが重要なのだ、と。雰囲気が少し似ているだけの曲まで、界隈曲として扱われてしまうこともある、とも言う。

ある書き手は、さらに鋭い指摘をしている。その「似ている」という感覚は、作り手が込めたものではなく、聴き手の側が見いだしているのだ、と。言われてみれば、本人は否定しているのに周囲だけが界隈曲と呼ぶ、という場面は珍しくない。

だとすると、界隈曲を束ねているのは、音そのものではないことになる。誰の系譜に連なって聴こえるか、という帰属の感覚のほうだ。音で決まらない音楽ジャンル、という妙な矛盾がここにある。

暗号や裏の歌詞も、ただの飾りではない。聴き手に解読をうながし、聴くことを参加へと変えていく。仕掛けを解いた人だけが、界隈の内側にいる手ごたえを得られる。音楽そのものより先に、この参加の体験が人をつないでいるのかもしれない。

ジャンルと呼ぶか、つながりの名前と呼ぶか。どちらの言い分にも理があって、きれいな決着はまだついていない。

模倣から始まったものが、模倣を超えていくとき

見落とされがちな事実がある。起源とされる4曲には、暗号も文字化けも入っていなかった。それらは、後から続いた作り手たちが付け加えていった要素だ。

つまり「界隈曲らしさ」の一部は、本家ではなく、模倣の側が作り出している。真似から入ったはずの表現が、積み重なるうちに独自の様式へと変わっていく。

近年よく名前が挙がる作り手に、海茶がいる。合成音声の琴葉姉妹やずんだもんを使い、歌詞や映像のなかに考察の余地を仕込む。意味不明なまま放り出すのではなく、読み解けるように作られているのが特徴だ。こうした曲は、単なる後追いの枠をはみ出して、別の達成に届いているようにも見える。

こうした成熟は、起源との距離まで変えていく。出発点は、ひたすら本家を真似ることだった。ところが今では、本家を知らないまま界隈曲に出会う聴き手も増えている。手本だったはずの原典が、少しずつ背景へ退きはじめている。

模倣が、いつのまにか創造へ裏返る瞬間がある。ただ、ここでまた別の声が立ち上がる。感銘を受けたものを自分の作品に取り込むのが創作だ、というごく当たり前の指摘だ。たとえ界隈曲と名乗らなくても、影響はどのみち聴き手に見抜かれてしまう。

ジャンルとして転がり出した以上、もう誰にも止められない、という諦めに近い声もある。だから模倣を頭ごなしになじることも、無邪気にありがたがることも、たやすくはできない。

では、名前をつけて記録していく行為は、この音楽を守っているのだろうか。それとも、知らないうちに、少しずつ変えてしまっているのだろうか。

インターネットは、名前のなかったものに名前をつけ続ける

名前が後からついた音楽は、界隈曲だけではない。たとえばドリームコアのように、ある雰囲気にまず名前が与えられ、そこからジャンルが立ち上がっていく例もある。見たことがないのに懐かしい、安心と不穏が同居する、そうした感覚にこそ、人は名前をつけたくなるのだろう。

ネットという場所は、名前のなかったものに名前をつけ続ける装置のようでもある。ただ、界隈曲だけは、ほかと逆向きのねじれを抱えている。たいていのジャンルは、名づけられ広まることを、心のどこかで望んでいる。界隈曲の起源は、その正反対に、名づけられることも広まることも望まなかった。

だからこの音楽は、ひとつの奇妙な実験の場になっている。名前を拒んだものに、それでも名前をつけたら何が起きるのか。その問いが、いまもリアルタイムで進行している。

名前は、便利な道具でもある。検索でたどり着けるし、誰かにすすめることもできる。ただ、その便利さは、もともと閉じていたものを外へ開いてしまう。開かれた瞬間に、それは内輪だけのものではなくなる。界隈曲という名前は、入り口であると同時に、出口でもある。

同じ書き手は、もっと厳しい角度からも疑問を投げかけている。語るなと言って消えた相手が遺したものを、美しい継承の物語として語り直す。それは、あまりに無邪気が過ぎるのではないか、と。

この言葉を、単なる断罪として片づけたくはない。むしろ、答えの出ない重たい問いとして、そのまま受け取っておきたい。

それでも、名前は呼ばれてしまう

結局、界隈曲がジャンルなのかどうかは、いまも決まっていない。ひとつの音楽の様式なのか、それとも、ここにいない誰かの不在につけられた呼び名なのか。その問いには、今のところ答えがない。

そして、検索されるたびに、こうして誰かが文章に書くたびに、その名前は少しずつ手垢のついたものになっていく。皮肉なことに、名前を書かなかったこの記事でさえ、結局は名前をつける側に立っている。その居心地の悪さは、たぶん簡単には消えない。

名前がなければ、この音楽はもっと早く忘れられていたかもしれない。名前があるから、こうして残ってもいる。残すことと、変えてしまうことは、たぶん同じことの裏表だ。

あなたなら、名前をつけて並べる側に立つだろうか。それとも、何も言わずに、ただ聴く側にとどまるだろうか。どちらが正しいのかは、やはり書かないでおく。

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橙咲 華のアバター 橙咲 華 トウサキ ハナ

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Kカルチャー&謎を解説
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