試合が終わった瞬間、ピッチに崩れ落ちた選手がいた。ワールドカップの決勝トーナメント、ブラジル戦。後半アディショナルタイムに自陣でボールを失い、それが逆転ゴールの起点になった。一夜明けても、本人のSNSには「お前のせいで負けた」という書き込みが並び続けた。
光景としては、見慣れている。負けるたびに、誰か一人が名指しされる。四年に一度、あるいはもっと短い周期で、日本のサッカーファンは「戦犯」という一語を持ち出す。当たり前に流通しているから、誰もその奇妙さに立ち止まらない。
だが、少し引いて見ると妙な話だ。十一人でやる競技で、なぜ敗因は一人に集約されるのか。そして、そのプレーを実際に見ていない人までが、なぜ攻撃に加われるのか。ここには二つの別々の問題が重なっている。一つは「人はなぜ一人を選んで責めるのか」という心理の問題。もう一つは「その声がなぜここまで広がり、増幅されるのか」という仕組みの問題だ。この記事は答えを出すためではなく、この二つの問いを分けて考えるために書いている。
「戦犯」という言葉が成立してしまう瞬間

まず事実を整理しておく。ブラジル戦で日本は前半に先制し、後半に追いつかれ、終了間際に勝ち越された。逆転弾につながったのは、途中出場していた選手が自陣でボールを奪った直後のバックパスだった。これがカットされ、そこからの攻撃で失点した。当該の選手は試合後「クリアすればよかった」と語り、責任は自分にあると明言している。
ここまでは、映像で確認できる事実だ。問題はこの先にある。「失点の起点になったプレーをした」ことと、「敗戦の責任がその一人にある」こと。この二つはまったく別の話だ。それなのにSNS上では、しばしば同じものとして扱われる。
試合を解説していた元日本代表の選手も、放送中に妙なことを繰り返していた。「結果論なんでね」「誰も彼を責められない」。チームのキャプテンも一夜明けて「彼のミスがどうこうという話ではない。チームとして戦って、チームとして負けた」と語っている。つまり、実際に高いレベルでプレーしてきた人間ほど、敗因を一人に帰することを明確に拒んでいる。にもかかわらず、外側の声は一人に向かう。この温度差は何を意味しているのだろうか。
結果を知ってから、原因を作り変えてしまう

心理学に「後知恵バイアス」と呼ばれる現象がある。物事の結果を知った後では、その結果が最初から予測可能だったかのように感じてしまう、という認知の癖だ。
このバイアスが厄介なのは、記憶そのものを書き換えてしまう点にある。負けたと分かった後に試合を振り返ると、あのプレーが「明らかな失敗」に見える。しかし同じプレーを、まだ勝敗が決まっていない時点で見ていたら、多くの人は気にも留めなかったはずだ。自陣でボールを奪ってつなごうとする判断は、それ自体はごく普通のプレーだからだ。結果が出た瞬間に、そのプレーは「取り返しのつかないミス」という意味を後から付与される。
ここに、人間が持つもう一つの傾向が重なる。複雑な出来事を、単純な因果で理解したいという欲求だ。敗戦の要因は本当は無数にある。前半の決定機を逃したこと、追いつかれた時間帯の守備、選手交代のタイミング、相手の質。それらが積み重なった結果として一点差の負けがある。だが、そうした複合的な説明は、感情的には受け入れにくい。「あのプレーさえなければ勝てた」という物語のほうが、はるかに飲み込みやすい。
負けた悔しさには、行き場が必要になる。その行き場として、最も分かりやすい一点が選ばれる。これが「戦犯」が生まれる基本的なメカニズムだと考えられる。誰かが特別に悪意を持っているというより、負けの痛みを処理するために、人は無意識に生贄を探してしまう。社会心理学ではこれをスケープゴートと呼ぶ。集団が抱えた不満や不安を、特定の対象に押し付けて解消しようとする働きのことだ。
ただ、この説明には反論もある。それはあまりに攻撃する側を免責しすぎではないか、という見方だ。「無意識のメカニズム」と言ってしまえば、中傷を書き込んだ本人の責任が薄まる。バイアスがあろうとなかろうと、他人を名指しで攻撃するかどうかは選択の問題だ、という指摘には一定の説得力がある。この点は後でもう一度戻ってくる。
これは今に始まったことではない

「戦犯探し」をSNSの産物だと考えると、話を見誤る。この構造は、SNSが存在しない時代からあった。
一九九八年、日本が初めてワールドカップに出場したとき、点を取れなかった一人のフォワードに激しい非難が集まった。帰国後の彼が水をかけられた、という逸話が今も語り継がれている。当時はまだ、批判の主な舞台は掲示板や雑誌、あるいは口伝えだった。それでも、たった一人を選んで責める形そのものは、今とほとんど変わっていない。
この事実は、二つの相反する解釈を許す。一つは「だからSNSは本質ではない。人間は昔からこうだった」という見方。もう一つは「昔からあった衝動が、SNSによって規模と速度を得てしまった」という見方だ。前者は仕組みの責任を軽く見積もり、後者は仕組みの責任を重く見積もる。どちらが正しいかは、次に見る「増幅」の問題を検討しないと判断できない。
なぜ、見ていない人まで参加できるのか

ここからが二つ目の問いだ。仮に「一人を責めたくなる」という衝動が昔からあったとしよう。それが今、桁違いの規模で表面化しているなら、そこには衝動とは別の要因が働いている。
SNSのタイムラインは、時系列で平等に流れているわけではない。反応を多く集めた投稿ほど、より多くの人の目に触れるように設計されている。そして、人の反応を最も強く引き出すのは、穏当な分析ではなく、怒りや対立を含んだ言葉だ。「あのプレーはこういう戦術的文脈で起きた」という冷静な指摘より、「戦犯」という一語のほうが、はるかに拡散しやすい。
つまり、攻撃的な言葉は仕組みの上で有利になる。誰かが強い言葉を投げ、それが伸び、伸びたことでさらに多くの人が同じ言葉に接する。接した人の一部が「みんなが言っているなら」と続く。この連鎖の中では、実際に試合を見たかどうかはもはや関係がない。強い言葉の流れに乗ること自体が、参加の形になる。
ここで見落とせないのは、同じ仕組みが逆方向にも働くという事実だ。今回の一件では、中傷が広がる一方で、それを咎める声も同じくらい強く広がった。相手チームの選手が、崩れ落ちた日本の選手に歩み寄り、抱き寄せて声をかけた。その映像が拡散した。「対戦相手が敬意を払っているのに、なぜ同じ国の人間が攻撃するのか」。そんな反応が、中傷への怒りとともに大きなうねりになった。実際、この件を報じた多くのメディアの論調は、批判そのものではなく「誹謗中傷への怒り」に傾いている。
ここに、単純な「SNS悪玉論」では割り切れない難しさがある。仕組みが攻撃を増幅するなら、擁護もまた同じだけ増幅されるはずで、現にそうなっている。問題は攻撃が存在することそのものではなく、攻撃と擁護が同じ土俵で音量を競い合う構造にあるのかもしれない。冷静な分析だけが、その競争から取り残される。
「戦犯」という言葉を、私たちは手放せるか

ここまで来て、最初の二つの問いに戻る。人はなぜ特定の誰かを責めるのか。その声はなぜ増幅されるのか。前者は人間の古い心理の問題で、後者は比較的新しい仕組みの問題だった。この二つは別々でありながら、SNSの上で噛み合ってしまう。責めたい衝動を、増幅する仕組みが受け止め、加速させる。
では、どうすればいいのか。ここで簡単な結論を出すことはできない。「冷静になろう」と呼びかけること自体は正しいが、後知恵バイアスもスケープゴートの衝動も、意志の力で消せるものではない。プラットフォームの側も、反応を集める投稿を優先する設計が変わらない限り、強い言葉が有利な状況は続く。
一つだけ言えるのは、先ほど保留した論点が効いてくる、ということだ。バイアスや衝動が人間に備わっているとしても、それを言葉にして他人へ投げるかどうかは、最後は個人の選択に委ねられている。メカニズムは免罪符にならない。「つい書いてしまった」の「つい」の部分に構造があるのは確かだが、書くという行為そのものは、依然として本人のものだ。
負けた試合の後、誰かを責めたくなる気持ちが湧くこと自体は、止められないのかもしれない。だが、その気持ちに名前をつけて、名指しで投げつけるかどうかは別の話だ。「戦犯」という言葉を口にする前に、一つ問い直せるか。自分は今、後知恵で記憶を書き換えていないか。強い言葉の流れに、ただ乗っているだけではないか。
その一瞬を持てるかどうかに、答えはまだ出ていない。ただ、次に日本代表が負けたとき、また同じ光景が繰り返されるのかどうか。それを決めるのは仕組みでも心理でもなく、画面の前にいる一人ひとりだ、という部分だけは動かしようがないように思う。

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