セロガキの意味と、発明者がいないのに広まった理由とは

ドパガキには、発明者がいる。2024年12月、ある投稿がMrs. GREEN APPLEの「ライラック」をこう評した。集中力の続かない若い世代でも飽きないように作られた曲だ、と。脳内物質になぞらえた呼び名は、そこを起点に広がった。

だが、セロガキには発明者がいない。最初に言い出した一人を、辿ろうとしても辿りつかない。セロトニン中毒のガキ、と書こうとしたら先駆者だらけだった。そういう趣旨の声が、X上には残っている。

片方には発明者がいて、片方にはいない。なぜ対義語のほうだけが、誰の手柄でもないまま、いっせいに生まれたのか。この記事は、その一点だけを考える。

目次

セロガキという言葉が指しているもの

まず、言葉の中身を確認しておく。

セロガキは、セロトニン中毒のガキを縮めた言い方だ。Xでは、穏やかで反復的なものを好む側として使われる。長い曲を最後まで聴く。歌詞の意味を考える。動画を0.5倍速で見る。環境音やアンビエントを流す。そういう聴き方や見方をする自分を、半分自嘲しながらこう呼ぶ。

対になるのがドパガキだ。短い動画、音数の多い曲、めまぐるしい刺激のほうへ向かう側を指す。セロガキは、その反対側に立つ。

ただし、ここで早めに断っておきたい。この対比は、脳の働きを説明したものではない。セロトニンやドーパミンが体の中で実際に何をしているか、という話には立ち入らない。あくまで、Xでこの言葉がどう使われているか、という範囲に限る。

もう一つ、大事な点がある。使っている本人たちが、この二分をそれほど信じていない。基本はドパガキだけど、ワルキューレを聴くときだけセロガキになる。自分は両方持っている。そういう言い方は、最初から普通に混じっていた。固定された性格ではなく、その時々の状態を指すラベルとして使われる。この点には、後でもう一度戻る。

ドパガキそのものについては、ドパガキの意味と起源をまとめた記事がある。ここでは、対義語の側に絞って話を進める。

発明者がいる言葉と、いない言葉

この二つの言葉には、生まれ方に大きな違いがある。

ドパガキの起点は、わりとはっきりしている。先にふれたライラック評の投稿だ。そこではドーパミン中毒のガキという言い回しが使われ、やがて略語のドパガキが定着した。ニュース記事や百科事典の類も、だいたいこの投稿を出発点として扱っている。誰が言い出したか、を指させる言葉なのだ。

おもしろいのは、その発明者がいる言葉のほうも、根っこは案外あやしいことだ。ライラックが本当に刺激の多い曲なのかを、後から音楽的に検証した人たちがいる。それによると、転調らしい転調は曲の後半に少しあるだけだという。言われるほど刺激の詰まった作りではない。つまりドパガキは、最初の例からして、曲の実態より先にイメージが走っていた。名指す言葉は、当たっているから広まるとは限らない。

セロガキは違う。同じように起点を探しても、一人に行きつかない。複数の人が、別々の場所で、ほぼ同じころに思いついている。先ほどの、書こうとしたら先駆者だらけだったという感覚が、それをよく表す。言い出しっぺを決められない言葉、と言ってもいい。

この差は、小さく見えて意外と本質的だ。ドパガキは、誰かが他人を名指すために作った言葉だった。あのガキたちは刺激に飛びつくだけだ、という揶揄として始まっている。一方のセロガキは、名指された側が自分を呼び返すために要った言葉だ。だから前者には発明者がいて、後者は、いわば全員が同時に発明者になった。

なぜ名指された側は、自分を呼び返したのか

では、なぜ呼び返す言葉が要ったのか。

ドパガキは、もともと褒め言葉ではない。刺激に流されている、集中が続かない、という否定をふくんでいる。自虐として使うときも、その否定は消えない。否定的なラベルを貼られた人間は、たいてい二つの動きをする。

一つは、反対側に立つことだ。お前はドーパミン漬けだ、と言われて、いや自分はそっちじゃない、と返す。その受け皿がセロガキだった。もう一つは、ラベルの中に逃げ場を作ることだ。自分はドパガキだが、この曲のときだけはセロガキだ、という言い方がそれにあたる。否定をまるごと受け入れるのでも、まるごと突っぱねるのでもない。枠の内側で、居場所を作り直している。

この動きは、別に新しくない。人を二つに分ける遊びは、ずっと前からある。外向と内向で分けることもあれば、陰キャと陽キャで分けることもあった。分類を渡されると、人はその枠の中で自分の位置を探しはじめる。セロガキは、その長い流れのいちばん新しい一例にすぎない。新しいのは、分け方の根拠を脳内物質に求めた、という言葉の選び方のほうだ。

二分したがるのに、二分を信じていない

ここで、冷めた見方をいくつか並べておきたい。

一つ。脳内物質で性格や好みを分けるのは、雑だし、科学的でもない。これはその通りだ。セロガキとドパガキの対比に、研究の裏づけがあるわけではない。なんとなくのイメージを借りているだけだ、という指摘は外れていない。

二つ。ただの言葉遊びを、大げさに読みすぎではないか。これも、もっともな反応だろう。当人たちはネタとして軽く使っている。そこに構造だの欲求だのを持ち込むのは、後から来た側の勝手な深読みかもしれない。

三つ。そもそも人は、片方に割り切れない。これがいちばん効く。実際、使っている人自身が、自分は両方あるとか、場面で変わると言っている。二分法を持ち出しておきながら、同じ口で、二分なんてできないと認めてしまう。

分類を信じていないことは、言葉の増え方にも表れている。ドパガキとセロガキができると、すぐに似た言い方が次々に湧いた。アドレナリン中毒のアドガキ。セロトニン中毒のおじさんでセロおじ。さらにはセロトニンジジイやギャバババアまで、半分ふざけて作られていく。中身の正確さを競っているなら、こんなに気軽には量産されない。脳内物質の名前を借りた語尾の差し替えは、内容より、作って言い合うこと自体が目的になっている。

最後の一つは、反論であると同時に、この現象の核でもある。信じていない分類を、なぜ手放さないのか。割り切れないと分かっているのに、なぜわざわざ割り切る言葉を使うのか。

一つの読み方はこうだ。この分類は、正確な自己診断のための道具ではない。いまの自分の状態を、一言で相手に渡すための合図だ。いま私はセロガキ寄り、と言えば、細かく説明しなくても、だいたいの気分が伝わる。正しさよりも、伝わりやすさのために使われている。だとすれば、当たっているかどうかは、はじめから問題ではないのかもしれない。

気分を言葉にするのは、本当はむずかしい。いまの自分が、新しい刺激を浴びたいのか、それとも静かに浸りたいのか。その揺れを、毎回ていねいに語るのは骨が折れる。セロガキという一語は、その面倒を肩代わりしてくれる。だから、科学として雑でも、合図としてはよくできている。雑であることと、便利であることは、ぶつからない。

ドーパミン社会論という補助線

もう少し広い文脈にも触れておく。

ここ数年、ドーパミンという言葉は、脳の外へ出て独り歩きしている。スマホを見続けてしまう。短い動画をやめられない。それをドーパミンのせいにする語り方が、すっかり定着した。書籍のタイトルにもなった。英語圏でも、すり減っていく集中力を指す言葉が大きな話題になった。欲しがってしまうこと全般を、脳内物質の語彙で説明する。そういう土台が、すでにあった。

この語彙には、いつのまにか権威の影もさしている。ネタとして広がった呼び名を、脳科学の専門家が取材で語る、という場面も生まれた。冗談で始まった言葉に、まじめな解説が後から付いていく。借り物のイメージが、少しずつ本物らしさをまとっていく。流行語が定着するときの、よくある流れではある。

セロガキとドパガキは、その土台の上に乗っている。正確には、その語彙を、社会の説明ではなく自分のラベルに転用した形だ。ドーパミンは、もともと社会の側を語る言葉だった。そこへ、自分はセロトニンの側だという個人の名乗りが接ぎ木された。

ただ、ここも断定はしない。当人たちが社会論を意識しているのか。それとも、同じ空気を吸っているだけなのか。そこは、外からは分からない。言葉の流行は、たいてい理屈より先に体で広がる。

割り切れないと知りながら

発明者のいない言葉は、誰かが正しく定義し終える前に、もう全員が使いはじめていた。意味が固まるより先に、空気として広がった。セロガキは、いまもその途中にある。

自分は片方に割り切れない。そう分かっているのに、人は割り切る言葉を手放せずにいる。この問いには、まだうまい答えが出せない。

ひとつだけ、別の問いを置いて終わる。次に、誰の発明でもないまま生まれてくる対義語があるとする。それは、何の否定として現れるのだろうか。

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橙咲 華のアバター 橙咲 華 トウサキ ハナ

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Kカルチャー&謎を解説
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