日本人がパスポートを持たない本当の理由は「行けない」のか「行かない」のか

2026年4月、国会でひとつの数字が取り上げられた。日本のパスポート保有率、17.8%。ドイツ80%、アメリカ48%、韓国45%と比べて「非常に低い」と問題提起されたこの数字は、SNSで大きな反響を呼んだ。

ニュースのコメント欄には、ふたつの声が渦巻いていた。「円安で行きたくても行けない」という声と、「別に困らないから行かないだけ」という声。どちらも正直な本音だろう。しかしこのふたつは、表面上は同じ「行かない」でも、まったく意味が違う。前者は経済的な事情で行けない状況であり、後者は自分の意志で行かないという選択だ。この区別をしないまま「17.8%問題」を語ると、議論は的を外れてしまう。

日本人の8割はなぜパスポートを持っていないのか。その答えは「行けない」のか、それとも「行かない」のか。この問いを丁寧に解きほぐしてみたい。

目次

各国比較の「罠」──80%と17.8%をそのまま比べてはいけない

まず、よく引用される各国比較を整理しておく必要がある。ドイツ80%、アメリカ48%、韓国45%に対して日本17.8%。数字だけ見れば日本の低さは際立つ。しかし、この比較にはいくつかの「罠」がある。

ドイツの80%は、EUのシェンゲン協定が背景にある。ドイツ国民はEU加盟国内であれば、パスポートがなくても国民IDカードだけで自由に移動できる。フランスにもオランダにもポーランドにも、パスポート不要で行けるのだ。それでも80%が保有しているということは、EU外への旅行需要が旺盛であることを示してはいる。ただし「パスポートなしで隣国に行ける」という地理的条件は、四方を海に囲まれた日本とはそもそも前提が異なる。

アメリカの48%も同様だ。カナダやメキシコとの国境を陸路で越える文化が長く続いており、隣国への「気軽な越境感覚」が根づいている。2009年以降はパスポートが必要になったが、それ以前の習慣の名残もあれば、広大な国内を移動するだけで十分という考え方も根強い。飛行機に乗らなければ出国できない島国と単純に比較することには無理がある。

その点でいえば、韓国45%のほうが参考になる数字だ。韓国も日本と同じく、海を渡らなければ外国に行けない地理的条件を持つ。それでも保有率が45%というのは、日本の17.8%とは大きな差だ。韓国では気軽に短期間で海外を訪れる文化が根付いており、近距離の東南アジアや日本への頻繁な往来が保有率を押し上げているとされる。同じ島国ながら、この差は何を示しているのか。そこに本質的な問いが隠れている。

各国との比較は「条件を揃えなければ意味がない」という留保が必要だ。その前提のうえで改めて日本の17.8%を見ると、やはり低いという評価は成り立つ。問題は、なぜここまで低いのかという「原因」の部分にある。

なお、各国の数字については出典の違いにも注意が必要だ。アメリカの48%はアメリカ国務省の統計、韓国45%は韓国外交部の旅券発給データをもとにした推計値で、集計方法が国によって異なる。日本の17.8%は外務省の旅券統計をもとにした数字だ。比較の際には、こうした算出方法の差がある点も頭に置いておきたい。

「行けない」──円安と物価高が作った、見えない壁

「行きたいけど行けない」と感じている人は、確実に存在する。その最大の要因として挙げられるのが、円安だ。

2020年代初頭、1ドルは110円前後だった。それが2022年以降、急激な円安が進み、2026年現在は160円前後で推移している。単純計算で、海外旅行のコストは4〜5年前の1.4倍以上になっている。航空券、現地のホテル代、食事代、すべてが円換算で跳ね上がった。以前なら10万円で楽しめた東南アジア旅行が、今では15万円を超えることも珍しくない。ハワイや欧州となれば30〜50万円規模になるケースもある。

さらに追い打ちをかけるのが燃油サーチャージの高止まりだ。国際線の航空券には燃料費の高騰分が上乗せされており、往復で数万円規模になることもある。パスポートの申請手数料よりも、その先にある旅行費用の壁のほうがはるかに高い。

JTBの調査では、2026年に海外旅行に行かない理由として「円安だから」と答えた人が約21%にのぼる。収入が増えていない中で物価だけが上がり、「海外旅行は一部の人のもの」という認識が静かに広がっている。かつて「ちょっと贅沢なレジャー」だった海外旅行が、今や「特別な決意が必要な出費」になりつつある。

パスポートの取得が「将来への投資」として機能するためには、「近いうちに使う見込み」がなければならない。行く予定がない人はパスポートを作らず、作らないからますます海外が遠のく。この負のサイクルが、保有率の低下を加速させている。

一度でも海外旅行を経験したパスポート保有者の51.5%が「また行きたい」と答えるのに対し、パスポートを持っていない人のうち「行きたい」と思っている割合は11.9%にとどまるというデータがある。最初の一歩を踏み出せるかどうかが、その後の意識を大きく左右する。経済的な壁は、やがて関心の壁にも変わっていく。

「行かない」──関心の変化と、国内充足という現実

一方で、経済的な事情とは別に「行く気がない」という人も確実に存在する。日本観光振興協会の調査では、海外旅行を「したくない」と答えた人が50.7%にのぼる。この数字は「行けない」ではなく「行かない」という意志を示している。

その背景にあるのが、日本国内での生活充足感だ。グルメ、温泉、自然、テーマパーク、アニメやゲームのサブカルチャー。国内に魅力的な選択肢がこれだけそろっていれば、「わざわざ言葉の通じない外国に行く理由がない」という感覚は、決して不自然ではない。毎年数千万人規模の外国人が日本を訪れているのも、この国の魅力の裏返しと言えるだろう。

インターネットとSNSの普及が「疑似的な海外体験」を可能にしている面もある。YouTubeで世界中の街並みを眺め、SNSで海外グルメや文化を楽しみ、ゲームで異文化の世界観に触れる。現代においては、物理的に海外へ行かなくても「外の世界」を感じる手段が無数にある。この環境が、旅行への動機づけを変化させているのは確かだろう。

言語の壁も大きな要因だ。英語が比較的通じる韓国や中国の主要都市と比べ、日本では英語の日常的な運用が限定的で、「現地で言葉が通じなかったらどうしよう」という不安が旅行への踏み出しを妨げるケースは少なくない。英語力に自信がなければ、それだけで海外旅行のハードルは大きく上がる。

休暇制度の違いも見逃せない。ヨーロッパ各国では法定の夏季休暇が4〜5週間あり、それを利用して海外に行くことが文化として定着している。日本の有給休暇取得率は依然として低く、まとまった休みを取ること自体がハードルになっている。短い連休で準備・移動・現地滞在・帰国をこなすのは、体力的にも精神的にも負担が大きい。この構造的な問題は、手数料の引き下げでは解決できない。

つまり「行かない」という選択には、怠惰や無関心ではなく、合理的な判断が含まれている場合も多い。国内が充実しており、休暇が短く、言語の壁もある。そういった条件の中で海外旅行を選ばないことは、ある種の現実的な判断とも言える。

コロナ前から下がっていた──推移データが示す、不都合な事実

「保有率の低下はコロナが原因」と思っている人は多いかもしれない。しかし、データを見ると少し違う景色が見えてくる。

外務省の旅券統計によれば、日本のパスポート保有率は2010年代を通じて20〜25%の範囲で推移しており、2019年時点では23.8%だった。コロナ禍が始まった2020年以降、当然ながら急落し、その後も回復しきれていない。2026年現在の17.8%という数字は、コロナ前の水準をおよそ6ポイント下回っている。

しかし注目すべきは、保有率の最盛期はずっと以前にあったということだ。1990年代後半から2000年代初頭にかけて、日本人の海外旅行者数はピークを迎えた。円高が続き、海外旅行が庶民にとっての「手の届く体験」へと変わっていった時代だった。その後、リーマンショック、東日本大震災、そして段階的な円安の進行とともに、保有率は下落の方向へ向かっていった。

つまりコロナは「引き金」ではあったが、「原因」ではない。コロナ以前からすでに下がり始めていたトレンドが、コロナによって加速し、そのまま定着してしまった、というのが実態に近い。「コロナが終わっても戻らない」という現象の背景には、コロナ前からの構造的な変化がある。

出国日本人数のデータも同様の傾向を示す。2024年の日本人出国者数は約1,301万人。コロナ前の2019年が約2,008万人だったことを考えると、まだ65%程度しか回復していない。同じ2024年に訪日外国人は3,687万人にのぼり、入国者数が出国者数の約2.8倍という逆転現象が生じている。

この逆転をどう解釈するかは難しい。「日本が魅力的だから外国人が来る」という見方もあれば、「円安で日本が安くなったから来る、日本人は高くて出られない」という見方もある。どちらの解釈も、数字だけからは証明できない。

数字の話をもうひとつ加えると、世代による差も興味深い。2025年のパスポート発行数のうち、30歳未満が全体の約45%を占める。若い世代が旅券発行の主役であることを示しており、若者が完全に海外離れしているわけではない。ただし、発行しても実際に使う頻度が低い、あるいは国内でのIDとして取得するケースも増えている可能性がある。発行数と渡航数が必ずしも一致しない点は、保有率の数字を読む際に覚えておく必要がある。

7,000円の引き下げで、保有率は上がるのか

2026年4月、改正旅券法が参議院本会議で全会一致により可決成立した。7月1日から、パスポートの申請手数料が約7,000円引き下げられる。10年用パスポートはこれまでの約16,000円から約9,000円(オンライン申請の場合は8,900円)になる。12〜17歳の5年用に至っては10,900円から4,400円と大幅な値下げだ。

政府はこの施策により、若者層を中心とした海外渡航の促進を通じて、パスポート保有率の向上を期待している。たしかに、手数料が安くなれば「とりあえず作っておこう」という人が増える可能性はある。特に若年層や学生にとって、数千円の差は意思決定に影響を与えることもあるだろう。

しかし多くの人が指摘するのは「本質が違う」という点だ。パスポートを持っていない人の理由が手数料にあるなら、引き下げは有効な施策になる。ただ前述のように、保有率が低い理由は手数料だけではない。円安による旅行費用の高騰、関心・必要性の欠如、休暇の短さ、言語への不安。これらの問題は、手数料を7,000円下げたところで解決しない。

加えて、出国税が同時期に1,000円から3,000円へと引き上げられる見通しもある。10年間に4回以上海外へ行く人にとっては、手数料の値下げ分を出国税の増加分が上回る計算になる。「入口を安くして出口を高くする」という構図に違和感を覚える声も少なくない。もっとも、これらを切り離して議論するか、セットとして考えるかによっても、評価は変わる。

改正法には3年をめどに効果を見直す規定が盛り込まれており、実際に保有率がどう変化するかは今後のデータを待つしかない。施策が効果を持つかどうかは、「行けない」層と「行かない」層のどちらが多いかによっても変わってくる。そしてその比率は、まだ誰も正確には把握していない。

「行けない」か「行かない」か──この問いに、答えは出ない

結局のところ、日本人がパスポートを持たない理由は「行けない」なのか「行かない」なのか。答えは、どちらでもある、というのが正確なところだろう。

円安と物価高の中で、経済的に海外旅行を選べない人は確かに存在する。同時に、経済的に問題がなくても「国内で十分」と感じて行かない人も存在する。さらに、かつては行っていたけれど、コロナを経て習慣が変わってしまった人もいる。日本人の8割というひとくくりの数字の中に、こうした異なる事情を持つ人たちが混在している。

ひとつ、データが示す事実がある。一度でも海外を体験した人と、一度もない人とでは、旅行への意欲の温度がまるで違うのだ。保有者の51.5%が再び海外旅行を望むのに対し、非保有者でそう感じる人は11.9%にとどまる。最初の一歩を踏み出せるかどうかが、その後の意識を大きく分けるのだとすれば、保有率の低下は単なる「旅行離れ」を超えた問題かもしれない。

一方で、海外に行くことが「正解」で、行かないことが「問題」だという発想自体にも疑問はある。どこで何を選んで生きるかは、個人の自由だ。経済的事情であれ、関心の問題であれ、その選択を外側から断罪することはできない。

日本人がパスポートを持たない理由は「行けない」のか「行かない」のか。この問いに一本の答えを出すことは、おそらくできない。ただ、どちらの答えを選ぶかによって、この現象の意味はまったく違ったものになる。17.8%という数字の背後に何があるのかを考え続けることが、答えよりも大切なことかもしれない。

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橙咲 華のアバター 橙咲 華 トウサキ ハナ

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