Adoが顔出しした理由は?”顔を見せないアーティスト”が素顔を選ぶとき

画像引用:Ado、https://ado-shop.com/

2026年2月28日、歌手のAdoが新曲「ビバリウム」のミュージックビデオで、自身初となる実写映像を公開しました。

デビュー以来約9年間、一貫して顔を見せずに活動してきたAdoが、なぜ今このタイミングで実写MVに踏み切ったのか。そこには「歌い手文化」への敬意、自己肯定感との葛藤、そして小説プロジェクトとの連動がありました。

この記事では、Adoが顔を隠してきた理由と顔出しに至る経緯を振り返りながら、GReeeeNやSiaなど同じく顔を見せないアーティストたちの選択とも比較し、「顔を見せる/見せない」という選択が持つ意味を考察します。

目次

2026年2月28日、「ビバリウム」MVで何が起きたのか

2026年2月28日の22時、AdoのYouTube公式チャンネルで新曲「ビバリウム」のMVがプレミア公開されました。Ado本人は21時30分からYouTubeで生配信を行い、ファンとリアルタイムで初視聴を共有しています。

このMVが大きな話題を呼んだ理由は、Adoにとって初の実写映像作品であり、本人自らが出演していたからです。約300カットで構成された映像には、カラコンを着用した目元や横顔、走るシーン、水中シーンなど、これまでのシルエットやイラストとはまったく異なるAdoの姿が収められていました。

Ado本人は公式コメントで、こう述べています。

「初めての実写で、しかも私自身が出演している今回のMVは、ものすごく見応えがあるのではないかと思います」

さらに、走るシーンについてはヒールで走ることの大変さを笑いながら振り返り、水中シーンについても自ら演じたことを明かしました。そしてコメントの最後を、こう締めくくっています。

「どんな形であっても私であることには変わりません。是非たくさんご視聴ください!」

この言葉は、単なるMV告知を超えた、Adoの覚悟が込められたメッセージとして多くのファンの心に響きました。

Adoはなぜ顔を隠し続けてきたのか

Adoが顔を見せない姿勢は、活動の最初期から一貫しています。2017年1月10日にニコニコ動画で歌ってみた動画を初投稿して以来、2020年10月23日のメジャーデビュー曲「うっせぇわ」の爆発的ヒットを経ても、テレビ出演やライブではすべて非顔出しを貫いてきました。

顔を見せない理由について、Ado本人はいくつかの場面で語っています。

まず、歌い手文化への敬意です。2021年10月のReal Soundインタビューでは、自分のことをアーティストというよりも歌い手として捉えていることを明かし、ボカロや歌い手の文化を広めるきっかけのひとつでありたいという思いを語っています。ニコニコ動画発の歌い手文化では、顔を出さずに声だけで勝負するスタイルが一般的であり、Adoはその文化的背景を強く意識していました。

もうひとつは、自己肯定感に関する率直な告白です。過去のインタビューでは、自分自身に取り柄がないと感じていたこと、顔出しは絶対にできないという思いがあったことを語っています。さらに2021年2月のバズリズム02出演時には、現役高校生であることも顔出しを控える理由として挙げていました。

テレビ出演においても、この姿勢は徹底されています。2021年1月のミュージックステーションでは電話出演、2022年2月のマツコ会議ではオンライン接続ながら放送には顔を映さない形式で出演しました。マツコ・デラックスは収録時にAdoの素顔を見て、もし想像と違っていたらどうしようと心配していたが想像通りだったと安心した様子を見せたことが話題になっています。2024年7月の徹子の部屋では番組史上初のリモート出演が実現し、スタジオにはAdoのイラストだけが映されました。

ライブでも同様です。2022年4月4日にZepp DiverCity TOKYOで開催された初のワンマンライブ「喜劇」では、磨りガラスのような大型ボックスの中でシルエットとして歌うスタイルが採用されました。2024年4月には国立競技場で2日間約14万人を動員した「心臓」を成功させましたが、ここでも基本的なスタイルはシルエット演出を維持しています。なお、この国立競技場公演は、改修後の同会場における女性ソロアーティスト初のライブでした。

このように、Adoの非顔出しスタイルは単なるこだわりではなく、歌い手文化への敬意、自己肯定感との向き合い、そして声と歌唱力で勝負するという明確な戦略が重なり合ったものでした。

なぜ今、顔出しに踏み切ったのか

約9年間にわたって顔を隠し続けてきたAdoが、2026年2月のこのタイミングで実写MVを選んだ背景には、ひとつの大きなプロジェクトの存在があります。

2026年2月26日に発売されたノンフィクション小説「ビバリウム Adoと私」です。ノンフィクション作家の小松成美が3年に及ぶ取材を重ねて書き下ろしたこの作品は、Adoの半生を初めて本格的に明かすものでした。不登校時代のこと、家族のこと、クローゼットで録音していた日々、歌い手への挑戦。これまで語られてこなかったAdoの過去が、ひとつの物語として形にされています。

楽曲「ビバリウム」は、この小説にちなんだ楽曲として2月18日に配信され、Ado自らが作詞・作曲を手がけました。ORICON NEWSのインタビューでは、小説のあとがきを書いている最中に歌詞にしたい、曲にしたいという思いが湧いたと制作のきっかけを明かしています。

つまり、小説(2月26日)、楽曲配信(2月18日)、実写MV(2月28日)という三つの要素が連動した一大プロジェクトの集大成として、この実写MVは位置づけられています。

Adoはインタビューで、私という人間がこれまで歌ってきたことの背景を、より深く知ってもらえたらうれしいと語り、同じような経験をした人や夢を目指している人に伝えたいという思いも述べています。

ここで重要なのは、この顔出しが外部からの要請やビジネス的判断によるものではなく、Adoの内面的な変化と表現の延長線上にあるという点です。小説で過去と向き合い、その過程を楽曲にし、さらに自分自身の姿をMVで見せる。それは、外から求められて脱いだ仮面ではなく、自ら選び取った表現だったと言えるのではないでしょうか。

顔を見せないアーティストたちの選択――GReeeeN、Sia、Daft Punk

Adoの選択をより深く理解するために、「顔を見せない」という戦略を取ってきた他のアーティストたちの事例を振り返ってみます。

日本で最も有名な例は、GReeeeN(現・GRe4N BOYZ)でしょう。2007年のメジャーデビュー以来、20年近くにわたって顔を出さずに活動してきました。その理由はシンプルで、メンバー全員が現役の歯科医師だったからです。音楽活動が本業に影響を与えないよう、デビュー時から顔を出さないことを条件にしていたと伝えられています。「キセキ」をはじめとするミリオンヒットを連発しながらも顔を隠し通した彼らは、匿名性と大衆的成功が両立することを証明しました。

海外に目を向ければ、オーストラリア出身のSiaが印象的です。2014年のABC Newsのインタビューで、有名になりたくない、外見についてインターネットであれこれ言われたくないと明かしたSiaは、巨大なウィッグで顔を隠し、パフォーマンスではダンサーに自分自身を投影させるスタイルを確立しました。「Chandelier」のMVは10億再生を超え、顔を見せなくても音楽は世界に届くことを示しています。

フランスのDaft Punkはヘルメットをトレードマークにし、2021年の解散まで一貫して人間としての素顔を封印しました。アメリカのMarshmelloも独自のヘルメットを被り続けながら世界的な人気を獲得しています。日本のMAN WITH A MISSIONは狼のマスクで世界ツアーを成功させました。

一方で、顔を見せる方向に進んだアーティストもいます。ClariSは中学生時代にデビューした際は顔を完全に非公開にしていましたが、2017年のライブで初めて仮面を外し、その後段階的に素顔を公開していきました。

これらの事例を並べると、興味深い共通点が浮かび上がります。顔を隠し続けたアーティストは、ミステリアスなブランドイメージを武器にリスナーの想像力を刺激し、声や音楽そのものへの集中を促してきました。一方で、顔を見せる選択をしたアーティストは、ファンとのパーソナルなつながりを深める方向へ舵を切っています。

どちらが正解ということではありません。それぞれのアーティストが、それぞれの理由で、それぞれのタイミングを選んでいるのです。

「どんな形であっても私」――Adoの顔出しが問いかけるもの

ここで改めて、AdoがMV公開時に発した言葉に立ち返りたいと思います。

「どんな形であっても私であることには変わりません」

この一文は、シルエットの自分も、イラストの自分も、そして実写MVに映る自分も、すべてがAdoであるという宣言です。顔を隠していた時期を否定するのではなく、新しい表現を加えることで自分の幅を広げた。そう読み取ることができます。

ストリーミング全盛の時代、音楽はビジュアルに依存しなくても届くようになりました。Adoは国立競技場で約14万人を前にシルエットだけで圧倒的なライブを成功させており、声と楽曲の力だけで勝負できることはすでに証明済みです。

だからこそ、この実写MVは必要に迫られたものではなく、選び取られたものだったのでしょう。小説で過去と向き合い、自ら作詞・作曲した楽曲に自分の姿を重ねる。それは、歌い手としてのAdoが、ひとりの人間としてのAdoと統合されていく過程のように見えます。

GReeeeNは歯科医師として患者との信頼を守るために顔を隠しました。Siaは外見への批評から自分を守るために顔を隠しました。Adoは歌い手文化への敬意と自己肯定感への葛藤から顔を隠しました。そしてAdoは、自分の半生と向き合った末に、自ら顔を見せることを選びました。

顔を見せるべきか、隠すべきか。アーティストにとっての「正解」は、おそらく存在しません。大切なのは、その選択が自分自身の意志から生まれているかどうか。Adoの場合、小説プロジェクトを経て「どんな形でも私」と言い切れるまでの内面的な変化があったからこそ、あの実写MVが生まれたのだと思います。

Adoの顔出しは、単に「ついに素顔を公開した」というニュースではありません。「自分とは何か」「表現とは何か」というアーティストにとって永遠のテーマに対する、ひとつの答えなのではないでしょうか。

その答えが正しいかどうかは、きっと誰にもわかりません。でも、だからこそ考え続ける価値がある。そんなことを感じさせる出来事でした。

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橙咲 華のアバター 橙咲 華 トウサキ ハナ

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Kカルチャー&謎を解説
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