2026年4月22日、メカニカルキーボード愛好家たちのタイムラインに、短い告知が流れた。
「突然のお知らせとなり恐縮ではございますが、2026年4月22日をもちまして、弊社は事業を終了(閉業)いたしました」
発信元はダイヤテック株式会社。「FILCO」ブランドでメカニカルキーボードを展開し、40年以上にわたって日本のキーボード市場を支えてきた老舗だ。告知に閉業の理由は一切記されていなかった。サポートページも問い合わせフォームも、その日を境に沈黙した。
SNSには「10年以上愛用してきた」「マジかよ、悲しすぎる」「二度見した」という声が相次いだ。同時に、修理窓口はどうなるのか、製品保証はどうなるのか、という現実的な問いも渦巻いた。
この記事では、ダイヤテックの閉業という出来事を起点に、3つの「答えのない問い」を考えてみたい。なぜ老舗が消えるのか。外部環境は本当に関係しているのか。残されたユーザーはどこへ向かうのか。答えは出ない。だが、問いを立てること自体に意味があると思っている。
ダイヤテックとFILCOとはなにか
ダイヤテック株式会社が設立されたのは1982年6月17日のことだ。東京都渋谷区恵比寿を拠点に、当初は半導体やLCDコントローラの販売商社として事業を始めた。
転機が訪れたのは1990年代。自社ブランド「FILCO(フィルコ)」を立ち上げ、メカニカルキーボードの製造・販売へと舵を切った。採用したのはドイツのCHERRY社製MXスイッチだ。このスイッチは打鍵感の明確さと耐久性で世界的な評価を持つ。FILCOはその日本語配列対応品として独自のポジションを確立していった。製造は台湾のパートナー企業(非爾特・台湾共栄)に委ね、企画・販売・サポートを国内で担うかたちをとっていた。
主力シリーズとなった「Majestouch(マジェスタッチ)」は頑丈な筐体と安定した動作が特徴だ。ビジネスユーザーやプログラマーを中心に支持を集めた。「壊れない」という評価は公式のキャッチコピーではなく、ユーザーの実感から生まれたものだ。SNSには「10年使っている」「15年現役」という声が今も数多く残っている。FILCO愛用者の多くは、キーボードを消耗品として扱わない層だった。
国内のメカニカルキーボード市場では、FILCOは東プレのRealforceやPFUのHappy Hacking Keyboardとともに、国産ブランドの一角を担ってきた。Realforceは静電容量方式、HHKBはコンパクト設計、FILCOはCherry MXの打鍵感と汎用性が強みだった。それぞれ異なる哲学を持ちながら、国産キーボードの裾野を支えてきた。
量販店での入手しやすさ、日本語配列への対応、明快な価格設定。FILCOの強みはある種の「間口の広さ」にあった。マニア向けでも汎用品でもなく、こだわりを持つ一般ユーザーが自然に手を伸ばせる場所に製品があった。価格帯もRealforceやHHKBより抑えめだった。最初のメカニカルキーボードとしてFILCOを選んだユーザーは少なくなかった。
非上場の中小企業であるため、売上高や従業員数といった経営規模の詳細は公開されていない。それでもキーボード愛好家の間では、国産ブランドの代名詞として40年以上その名を刻んできた。
その存在が、2026年4月22日に突然消えた。
4月22日に何が起きたのか
閉業の告知は公式サイトのトップページにひっそりと掲載された。内容は短かった。事業を終了したこと、個人情報はすでに適切に廃棄したこと。理由については一切触れられていなかった。
ここで法的な状態について補足しておきたい。「閉業」と「倒産」は全く異なる。倒産は法的整理(破産・民事再生等)を指す言葉だ。ダイヤテックについては帝国データバンク・東京商工リサーチのいずれにも倒産情報が登録されていない。東京商工リサーチは4月28日の時点で本社施錠・代表電話が営業時間外であることを確認し、「閉業」として速報した。法的な倒産手続きとは異なる、自主的な事業終了とみられる。
閉業と同時に、公式サイトのサポートページ・問い合わせフォーム・ソフトウェアダウンロードは一切利用不可となった。購入済み製品の修理受付も即時停止している。個人情報は閉業日までに完全廃棄されており、顧客データの移管もない。告知文にはその経緯が丁寧に記されており、個人情報の取り扱いについては誠実な対応がなされた。
一方で、製品ブランドに関しては続報があった。4月27日、FILCOの製造を長年担ってきた台湾の非爾特(台湾共栄)が独自に発表を行った。FILCOブランドを引き継ぎ、修理対応・販売業務を継続的に行うと明言した。「皆様の手元にあるすべてのFILCOキーボードを守る」という言葉とともに。
この発表はダイヤテック自身からではない点が重要だ。あくまで製造パートナーである非爾特側の判断による引継ぎ宣言だ。詳細な移行スケジュールや修理窓口の具体的な情報は、現時点でまだ公表されていない。引継ぎ自体は確定情報として受け取ることができるが、実態の伴う引継ぎまでには時間を要するだろう。
公式X(旧Twitter)の最終投稿は2026年3月6日。その後、閉業に関する投稿は一切なされなかった。予兆を感じ取っていたファンもいたようだが、公式からの言葉はなかった。
第1の問い──なぜ老舗は消えるのか
老舗が消える。その言葉には、時代の変化に取り残されたという含意がある。だが、それは正確だろうか。
ダイヤテックの閉業理由は公表されていない。したがって以下は、業界全体の構造から考える推論であり、ダイヤテック固有の事情を断言するものではない。
為替の問題がある。円安が定着した環境では、海外からの部品調達コストが利益を直接圧迫する。FILCOが採用してきたCherry MXスイッチはドイツ製だ。ユーロ建てで仕入れ、円建てで販売する構造は、円安局面において慢性的なコスト圧力となる。
製品ライフサイクルの問題もある。FILCOユーザーは「壊れない」から同じ製品を長く使い続ける。これは品質の証明である一方で、新たな買い替え需要を自ら生み出せない構造でもある。10年使い続けるユーザーは、その10年間メーカーに新たな収益をもたらさない。耐久性の高さが、ビジネスモデルを静かに圧迫する逆説があった。
市場の変化も見逃せない。2020年代に入り、中国・台湾メーカーのメカニカルキーボードが急速にシェアを拡大した。新世代ユーザーが求める要素は変わった。独自スイッチ・ホットスワップ対応・ワイヤレス機能・カスタマイズ性をセットにしたブランドが、低価格で次々と登場した。カスタムキーボード文化も広がった。スイッチ・キーキャップ・筐体を自分で組み合わせる層が生まれると、完成品を定価で販売するビジネスモデルはさらに競争にさらされた。
既存のファンはFILCOを手放さない。しかし新規ユーザーは、より多機能で安価な選択肢へ流れていく。固定ファン層が支える市場は、時間とともに縮小する。規模の小さい専業メーカーにとって、この流れに抗い続けることは容易ではない。
ただし、これらはどれも「ダイヤテックが閉業した理由」ではなく「老舗中小メーカーが直面する構造的な苦しさ」だ。閉業の直接原因は、今もって不明のままだ。問いは残る。
第2の問い──中東ショックは本当に関係するのか
2026年に入り、イラン情勢の悪化を起点とした地政学リスクが物流コスト・エネルギーコストを押し上げた。複数のメディアが電子部品の調達コスト上昇を報じている。この「中東ショック」がFILCO閉業の一因ではないかという見方が、SNS上で広がっている。
結論から言えば、因果関係は確認されていない。
電子部品のコストは、原油・ナフサ・LPGといった石油化学原料の価格に連動する面がある。プラスチック筐体・基板・スイッチには石油由来の化学品が使われている。エネルギーコストの上昇は製造コスト全体に波及しうる。物流費も原油価格に連動する。中東リスクが電子部品コストに影響を与えるルートは、理論的には存在する。
しかし、ダイヤテックの閉業告知には理由の記載がない。コスト上昇が直接の引き金だったという根拠はどこにもない。業界全体のコスト環境が厳しいことは事実だが、それが特定の企業の閉業に直接つながるかどうかは、別の話だ。同様のコスト環境の中で事業を継続している国内中小メーカーも存在する。
過去を振り返っても、電子部品コストの上昇で苦境に立たされる局面は繰り返されてきた。2021年から2022年にかけての半導体不足と原材料高騰、その後の急激な円安。その局面を乗り越えてきた企業もあれば、そうでない企業もある。コスト環境は状況を厳しくする要因だ。だが閉業の原因を直接説明するものではない。
中東ショックとFILCO閉業を結びつけるのは、構造的に誘惑的な論理だ。わかりやすく、それらしい。だが、その「それらしさ」こそを疑うべきだと思う。理由を語らなかった会社の代わりに、外側から理由を貼り付ける行為には、常に慎重でありたい。
この問いもまた、答えは出ない。
第3の問い──修理難民をどうすべきか
FILCOのキーボードを長年使い続けてきたユーザーにとって、今回の閉業で最も現実的な問題は修理とサポートだ。公式の修理窓口は即時停止した。設定ソフトのダウンロードも不可となった。
ただし、台湾の非爾特がブランド引継ぎを宣言している。修理・販売の継続を明言しており、既存ユーザーへの対応が期待される。しかし具体的な窓口・料金・対応機種はまだ公表されていない。引継ぎが宣言の段階にある以上、現時点では不確かさが残る。
このような状況は、FILCOに限った話ではない。中小メーカーが突然撤退したとき、長期保証製品のユーザーが取り残される問題は以前から繰り返されてきた。製品保証書は閉業と同時に実質的な効力を失う。法的な責任の枠組みは存在しても、修理を実施する主体がなければ机上の話にとどまる。
消費者側が自衛できることは限られている。キースイッチの交換は自力で行えるユーザーもいる。チャタリングや軸折れのような特定の故障は、半田ごてとスイッチ部品があれば修理可能だ。だが誰もがそのスキルを持つわけではない。設定ソフトが利用できなくなった問題についても、代替手段はあるが一定のリテラシーが必要になる。
一方で、こういう事態は、ユーザーに「修理を前提としないキーボードとの付き合い方」を改めて考えさせる。消耗品として割り切り定期的に買い替えるか、あるいは修理対応を明確に保証しているメーカーの製品を選ぶか。東プレやPFUは現在も国内サポートを維持している。
消費者の自己責任か、メーカー側の責任か。この問いも答えが出ない。ただ一つ言えるのは、製品の耐久性と企業の継続性は別の軸に立っているということだ。「壊れない」キーボードを作ることと、サポートを永続させることは、同じではない。製品を信頼することと、企業を信頼することも、また別の話だ。
答えが出ないままでも
ダイヤテック株式会社の閉業は、多くを語らなかった。理由は明かされず、事前の告知もなく、公式SNSにも言葉はなかった。残されたのは短い告知文と、40年分の製品だ。
この記事で立てた3つの問いに、答えは出なかった。老舗が消える構造的背景は複数挙げられるが、ダイヤテック固有の事情は今も不明だ。中東ショックとの因果は理論的なルートとして描けるが、証拠はない。修理難民への対応は、非爾特の引継ぎ宣言という光明はあるが、まだ不確かさの中にある。
答えがないままの問いは、しかし無意味ではないと思っている。こういう問いを持ち続けることが、次に同じことが起きたときの準備になる。どのメーカーを、どのような基準で選ぶか。長く使うということの意味を、どう考えるか。サポートの持続性を、購入基準に加えるかどうか。信頼とはなにかを、製品ではなく企業に向けて問い直すことでもある。
FILCOのキーボードは今も多くの机の上にある。それらのキーボードが打ち続けられる限り、この問いも消えないだろう。老舗が消えた日は、何かを考え始める日でもある。

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